柳生志限流の歴史
開祖 高橋市内勝義(右写真)
二代 三浦宗四郎義次
三代 宮本鶴松柾道
宮本門人 小佐野淳(84箇条相伝)
開祖高橋市内の出身地を記した伝授巻が存在している。それによれば高橋は宮城県栗原郡鶯沢村で明治後期に柔術を教えていたことが判明する。伝授巻には「高橋一義」とあるが、高橋市内と同一人物である。
また、明治三十七年に高橋市内は、同門の馬場秀一、伊藤忠八、志賀儀雄、佐藤源太郎ら五名とともに、門人山口留造に伝授巻を差し出している。この伝授巻にはすでに「柳生志限流」の名が使われており、高橋が創始した柔術なのかは断定できない。彼らが明治三十一年に他界した星貞吉の門人であることは十分に考えられるが、星貞吉の門人に彼らの姓名を見いだすことができない。
宮本鶴松氏が三浦宗四郎義次より授けられた柳生志限流の伝授巻は、
目録 『智之巻』
鋒閁詰・活法 『勇之巻』
整復術 『仁巻』
の三巻であるが、これは高橋市内直筆伝授巻とは内容が異なっており、もちろん柳生心眼流兵術とは全く異なっている。
また形の取り口が大きく相違するため、ひょっとすると高橋は星貞吉と同門なのかもしれない。すると柳生心眼流兵術(拳法)は貞吉の創始ではないことになる。今後の最大の課題はその部分の解明にある。
なお、宮本氏の伝授巻『智之巻』の巻末署名部分には次のように書かれている。
戊戌八月上浣
柳生眞蔭流 今泉義為
壬寅三月
柳生志限流 高橋勝義
右智巻之條々修業習得候條柳生志限流柔拳法皆伝初参段授与候者也
柳生視豊流 三浦義次
戊戌は明治三十一年、壬寅は明治三十五年である。年数的には一応合うことになるが、相伝してから、次代に相伝するまでの期間が短い嫌いがある。
柳生眞蔭流の今泉義為とはいかなる人物なのであろうか。これも今後の調査課題である。
高橋は小野派一刀流剣術も極めていたというが、剣術では飯が食えないと悟り、剣術は指導しなかった。昭和十五年没
三浦宗四郎は宮城県の出身で、釜石の警察署長の任にあり、その関係で武道研究会を立ち上げ、住民に護身術として柳生志限流を指導したのである。なお、三浦は自ら柳生視豊流と称している。
釜石は鉄鋼の町であり、また漁港の町でもある。戦前、この町には喧嘩好きの朝鮮系労働者や余所から入港してくる荒くれ者が多く、彼らから身を護るために柔術は大歓迎された。そして、昭和三十年代までは市内の各所で盛んに稽古がなされていたが、四十年代の高度経済成長期以来、急速に衰え、現在は見る影もない。