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国際水月塾武術協会 International Suigetsujuku Bujutsu Association

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本会が伝承している武術流派と古武道全般の技法・歴史・文化などを解説します。文章・記事・写真の転載は固く禁止します。

武田流合気之術真実史

武田流合気之術は古武道ではない Takeda Ryu Aikinojutsu is not Kobudo.

Please translate people except the Japanese into the language of each country.

先日、ルーマニアでのセミナーの折、会話の中で 「武田流は古武道です」 と真剣に話す人がいた。
海外にはその真実を調査する環境がなく、ただ説明されたことを盲目的に信用しているだけだから、そう主張するのも無理はない。
第一、日本でこの武術を教えている人たちでさえ、そう主張しているのだから。

「武田流合気之術は古武道ではない」 とここで説くのは流派の誹謗でも、中傷でもない。
したがって武田流の武術としての良否には一切触れない。
創作武道にも優れたものはいくらだってある。
これは私自身、この流派を昭和50年代に修行していた事実もあり、二人の師範よりかなり深い部分まで教伝を受けており、宗家伝承の秘技”梟師固Takerugatame)” も教えを受けた。

ここでは海外で真剣に稽古をしている人たちのために正しい歴史を提供するのみである。
今後、これ以上、創られた歴史が流布しないように。

まず、武田流合気之術の歴史は竹内鬼角斎信義という人物によって創られた。
この人は戦後、幾多の柔術流儀を学び、自らもいくつかの流儀を創作(武風流骨法など)している。
北九州市八幡に住んでいて(のちに広島に転居)、綿谷雪氏とも交流があったから 『武芸流派大事典』 を見れば、彼が創作した武術がいろいろ出ている。佐藤金兵衛氏に武田流を紹介したのも彼である。
さて、その創作された武田流の歴史は簡単に書くと以下のとおりである。

大祖を日本武尊とし、始祖の新羅三郎義光からの伝承により、武田義清を流派の初代とし、24世武田信虎に至る。信虎は、その第九子信友に伝え、天文10年(1541)、信虎がその子信玄に追われて駿河の今川義元に頼ると、武田流を信友の長男勝千代(26世)に伝えた。勝千代は九州に走って黒田家の食客となって同地に武田流の秘伝を伝えた。のち43世の大庭武幸(号一翁)に伝わり、大庭は昭和20年秋に、この伝統の秘術を一般公開した。

以上は竹内信義が綿谷に提供した文面(要約)で、これが武田流関係者の拠り所となった。
武田家に関する歴史は武田流の伝承を除けば正しいかもしれない。
つまり武田家の一系譜に武田流の伝承を肉付けしたのである。
当然、戦国時代の武田家には柔術など伝えられていないし、合気之術なるものが存在する可能性も皆無である。

武田流を幕末の武田家当主武田忠勝から伝えたとされる中村合気斎翁吉は本名を中村応吉といい、武田家に婿入りして武田応吉となる。応吉はもちろん武田流という実体のない武術は学んでいない。彼は最初、扱心流体術を浜与四郎に学び、後ち自剛天真流を竹田乙麿に学んだが、実際には竹田の後見人猪俣氏から相伝を受けている。また彼は楊心流を独自に研究して楊心大和流殺活術を開いた。

戦後、突如として福岡に現れた大庭一翁の武田流合気之術は、大庭がこの中村応吉から学んだというが、応吉はその生涯において一度も武田流合気之術なるものを名乗ってはいない。

武田流に名を連ねる内田良平、中野正剛、宮川一貫などの各氏は、右翼団体黒龍会のメンバーとして応吉が養成した者たちであり、彼らは皆講道館柔道を福岡県に普及した人たちで、政治的繋がりによる人脈であり、戦前に実体のなかった武田流なるものとは何の関係もない。もちろん大庭も巨人頭山満の薫陶を受けた国士である。
中村が武田家に養子に入ったことにより、福岡の武田系図を引っ張ってきて、武術の伝脈に利用したのであろう。
武田流はその後、福岡から東京に移住した中村久氏により、学生層に広く普及した。そして新たに武田流中村派を興してその宗家となり、合気道を競技化した功績は大きい。

武田流の母体となったのは明らかに八光流である。大庭が上京し、世田谷区松原町に聖武殿を建設して武田流を教え始めたときの初期の門人に山村義孝寿翁がある。私は学生時代、縁あって彼の麻布にあった道場を訪れ、稽古を見学させていただいたが、そこで稽古されていたものは八光流そのものであった。もし、私が当時、そこで見た柔術がそれまで見たこともなかった”合気之術”であったなら、入門していたことと思う。しかし、このとき山村氏からは藤田西湖伝の一伝流捕手(一尺二寸の短棒術)を学んだ。山村氏は武田流合気之術を名乗りながら、道場では世間受けするように”合気道”として教えていた。

その後、山村氏の麻布道場の消息は聞かない。山村氏は武田流の成立期に当身の大成に尽力し、著書もある。彼は中国の経絡を引用して、これを武田流の当身理論に仕上げた。武田流合気之術に使用する急所の数が657箇所もあるのはこのためである。

その後、武田流は進化を続け、昭和40年代、50年代と内容が変化していった。それは学んだ年代が異なる人たちの技や体系が、それぞれで異なっていることからもわかる。現在では武田流と称して八光流をしている人たちはいないだろう。

私は佐藤金兵衛氏伝を西郡師範に学び、さまざまな口伝「神経遮断の術」「野中の幕」「ほぞち打ち」「秘の打ち」「欄干落とし」等々を受けた。武田流杖術は九鬼神流から採用されており、三尺五寸の半棒を使う。これも全伝を受けた。もちろん現在は放棄しているので、だれにも教えていない。しかし、武田流の合気はわが協会の柔術制定形に多く採り入れている。
このうち「秘の打ち」は大庭からプロレスラーの力道山に教えられた。

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以上に見てきたように、武田流合気之術およびその関連武術については、戦前までの相伝の実体が皆無であり、戦後創作されたものであることがわかる。これは決して新しい創作武道であるから悪いとか、ダメだとかいうものではない。武田流の師範の中には素晴らしい技を使う人もいる。
ただ、その歴史について武田家からの流れを主張することはよくない。今後、伝承させていくためにも、正しい史観を以て、正しい武術の歴史を築いてほしい。歴史に偽りがあってはならない。

もし、諸賢の中で、武田流合気之術が正統な古武道であると主張する人がいれば、良識を以てその存在を立証する戦前の資料を添え、ご教示いただきたい。訂正は吝かではない。
by japanbujutsu | 2015-08-24 17:47 | 武術論考の部屋 Study

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