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国際水月塾武術協会 International Suigetsujuku Bujutsu Association

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本会が伝承している武術流派と古武道全般の技法・歴史・文化などを解説します。文章・記事・写真の転載は固く禁止します。

カテゴリ:武術論考の部屋 Study( 243 )

『図解雑学 剣豪列伝』 最終回

p.82 宮本武蔵
父から授かった技をベースに、あまり実用的とは言えない十手を小刀に持ち替え、二刀流を完成させたと考えるのが自然ではないだろうか。

【寸評】
この上もなく不自然である。
それではなぜ父の平田武仁はそんな非実用的な十手をわざわざ流儀に採用したのか、著者はその意味をまったく理解していない。
最初からなぜ実用的な小刀にしなかったのか。
武蔵の父は頭が悪かったのだろうか。
「あまり実用的とは言えない十手」 とは何に対して実用的ではないと言っているのだろうか。
私は個人的には平田無仁の十手は 「非常に実用的な十手」 だと思っている。

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その答えが分からないのでは剣豪のことなど書かない方がよい。






(完)
by japanbujutsu | 2017-06-24 15:10 | 武術論考の部屋 Study
『図解雑学 剣豪列伝』 ⑥

p.80 佐々木小次郎
この当時の剣術修行は、打太刀と仕太刀に分かれて「形」の稽古をするのが普通であった。小次郎は打ち込まれる側の打太刀として、師匠・富田勢源の相手を務めたとされている。

【寸評】
著者は武術の稽古についてまったくの無知であることがわかる。
なぜ弟子が師匠の打太刀を務めるのだろうか。
彼の頭の中では弟子が師匠に武術を教えることになっているらしい。
もうお終いである。

筆者はこの三十年、力信流で美和師範の、そして二天一流で荒関師範の仕太刀を務めた以外、自分の弟子に対して仕太刀を執ったことは一度もない。

松代藩文武学校における演武会で門人瀬沼氏の打太刀を務める筆者。

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(つづく)
by japanbujutsu | 2017-06-22 17:54 | 武術論考の部屋 Study
『図解雑学 剣豪列伝』 ⑤

p.60 田宮平兵衛重正
田宮の教えは、 「手に叶いなば、いか程にも長きを用ふべし 勝事、一寸まし」 というものであった。自由に扱えるならば、少しでも長い柄の刀を使うことが勝利への道である、と説いたのである。このため、後世の人々は皆、長柄の刀を差すことになったという。

【寸評】
「後世の人々は皆、長柄の刀を差すことになったという。」。
後世の人々とは誰のことなのだろう。
それではなぜ長柄の刀が現在ほとんど残っていないのだろうか。
なぜ、現在、田宮流をしている人たちの刀は柄も含めて短小なのだろうか。

写真は筆者が稽古・演武に使用している長柄刀。
筆者が通う関口流の道場でさえ、長尺刀を抜いているのは筆者だけである。
隣の二人の柄と比べればその長さの違いは一目瞭然である。

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序でに、
ただ一つ、確実に言えること。
それは江戸時代の定寸(刃長二尺三寸、柄長八寸)は体格が格段に大きくなった現代人の我々には明らかに短すぎる長さであること。
筆者からみれば、二尺三寸の長さは現代人にとってもはや脇差にしか見えない。
肥後関口流の古伝書に、居合刀の定寸を二尺五寸と定めているが、これを現代人の身長でみれば二尺七寸が相当する長さである。
居合のなんたるか、その本質を見極めなければいけない。
アメリカで190cmの男が四尺二寸一分の定寸杖で神道夢想流の形をしていたが、見るに堪えない演技であった。
せめて五尺にしてやらないと形にならない。
こういったことこそ伝統に囚われずに対処していくべき事柄ではないのだろうか。





(つづく)
by japanbujutsu | 2017-06-20 17:09 | 武術論考の部屋 Study
『図解雑学 剣豪列伝』 ④

p.58 林崎甚助重信
『鞍馬流柴田衛守の伝書』という書には、居合の元祖について「大野将監」という名を挙げている。この将監から一代下げて「林崎甚助」の名が記されているのである。おそらく甚助はこの将監の直門に当たる、”居合剣術中興の祖”というべき人物だったのだろう。

【寸評】
こんなレベルで本を書くべきではない。
まず、典拠としているのが信憑性の極めて乏しい 『鞍馬流柴田衛守の伝書』 という怪しげな伝書。
林崎甚助が居合術の始祖から 「中興祖」 にされてしまっている。
これは大問題。
しかもその師を大野将監とするのだから狂気の沙汰だ。
年令もこの二人には父子ほどの差がある (もちろん甚助が年長)。
この本には監修がついているので内容については連帯責任である。
たとえば関口流居合の伝書の一つには、関口柔心の師を片岡 (山が正しい) 伯耆 (守) としているが、こんなものを信じてはいけない。
後人の作為を容易に見破れる見識なくして著書など出すべきではない。


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(つづく)
by japanbujutsu | 2017-06-18 17:56 | 武術論考の部屋 Study
『図解雑学 剣豪列伝』 ③ 


p.48 斎藤伝鬼坊の最期
常陸国で後進の指導に当たっていた伝鬼坊に、あるとき、かつて卜伝のもとで共に修行を積んだ神道流の達人・桜井霞之助(真壁暗夜軒)が勝負を申し込んだ。彼はこの男をあっさりと討ち殺してしまう。(中略) ところがこの勝負がもとで桜井の門弟たちの怒りを買い、天正15年 (1587)、大勢の待ち伏せを受け、いっせいに弓を射かけられて命を落としてしまったのである。このとき伝鬼坊、38歳。剣のみを頼みとして官位まで得た人物にしては、いささかおそまつな最期と言えなくもない。

【寸評】
 これは巷間に知られた有名なエピソードであり、映画化もされているので、その内容自体についてとやかく言いたくはない。しかし、この流儀の継承者として、最後の一文は許せない。相手が仕掛けた戦いに、その相手が敗れ、仕返しに門弟多数が待ち伏せの上、一斉に矢を放って殺害した。この卑怯な手段でしか勝つことができない二流集団が奇襲を仕掛けて一人の侍を殺す・・・。これ以上、神道流にとっての恥があるだろうか。それこそ末代までの恥さらしである。その殺された伝鬼坊に対して 「いささかおそまつな最期」 とは何の恨みがあっての表現なのだろう。著者の岸祐二なる御仁を質してみたい。


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(つづく)
by japanbujutsu | 2017-06-16 17:34 | 武術論考の部屋 Study
紋付袴のこと

師匠が教えることに対して疑いを持つ・・・
武術を学ぶ際に、そんな心積もりでいたらそいつは破門である。
それは各流儀の起請文にも謳われている。

しかし、現代武道や歴史捏造流儀などを見ると、明らかに誤っていることに対して弟子たちは何の疑いも持たず、何の検証もせず、ただ師匠が言った通り、見た通りのことをそのまま実行している。
これほど危険なことはない。

真の古武道を修行、追究するのであれば、有職故実をしっかりと学び、誤りは正し、技だけではなく、附属する規範についても正しい知識を以て実践していかなくてはいけない。
それが真の古武道の姿なのだから。

そこで今回は紋付袴について考えてみたい。
現在、我々は演武会において紋付袴を着用している。
しかもそのほとんどは黒紋付に縞袴である。
そして、それに疑問を持つ者は皆無である。

しかし、最近それに強い疑問を感じるようになった。
それは先日ここに記したように、袴帯の結び方がいつのまにか「十文字が正しい」というあり得ない認識が正論の如くなってしまったことにもよる。
もちろん筆者も演武では門人に紋付袴を勧めてきた一人である。
しかし、よくよく考えると、その黒紋付に縞袴というのは格式を重んじる行事(式典、襲名式、葬儀、結納)の際に使用される正装礼服であることに改めて気付く。

果たして激しく動く身体表現文化である武術の演武にそのような畏まった正装を着ることが正しい姿なのであろうか。
否、そんなはずはない。
今、ここに大正時代に撮影された中央の影響をまったく受けていない仙台藩の御流儀影山流居合抜方の写真を見てみよう。
この時代に書籍用の写真を撮影するのであるから、紋付袴が演武の正装であるならそれを着用しているはずである。

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ところが、天野菊之助古弘及びその門人笹原清康の両氏はいずれも紋無しの着物であり、しかも白襦袢さえ着けていないのである。
笹原氏などは演武ではタブーとされている黒足袋である。
それを見て、ある程度調べて見ると、やはり武術の演武に用いる着物には規定などはなく、各人の好みで着ていたことが明らかになった。
そしてほとんどの場合、武術では黒紋付も縞袴も着けず、白襦袢も着けないこともわかった。

だから筆者は最近、演武会では紋付きも縞袴もできるだけ着用しないことにしている。
しかし、これはあくまでも筆者自身の考えと拘りによるものであり、紋付を門人に着用させているが故に、それを人に強要することはしない。






(完)
by japanbujutsu | 2017-06-14 17:29 | 武術論考の部屋 Study
『図解雑学 剣豪列伝』 ①

『図解雑学 剣豪列伝』(ナツメ社、岸祐二著、加来耕三監修、2004)を読んだ。
概説書なので、人物伝など大まかな記述に止まり、大きな間違いは少ないが、それでも見当違いしている記述がいくつかあり、今後、武術史を研究する人たちが同じ間違いをしないためにもそれらについて述べてみたい。
この本を持っている方は見て下さい。


P.18 変化する武士の意識と剣術
敵を殺すための技術は、竹刀を使った仕合で相手に勝つ技術へと変化していったのである。以後、実戦的な剣は廃れ、衰退の一途をたどることになる。一方で、江戸を中心に町道場は大いに発展・増加し、人気道場の中には全国から門弟を集め、巨大化するものも現れた。

【論評】
この文章は時代の正確性を欠いている。ここでいう「実戦的な」とは戦国時代のこと、少なくとも大坂の陣までのことだろう。ここから竹刀剣術が隆盛するまでの期間はとてつもなく長い。その間の木太刀による形剣術の隆盛期が抹消されている。こんな剣術史があるわけない。「江戸を中心に町道場が発展し」というのも早計で、町道場はむしろ地方の諸藩や農村の方が林立している。
特に埼玉県から群馬県にかけての農村地域には武術の稽古場が無数にあった。
写真は群馬県高崎市吉井町に現存する念流剣術の稽古場傚士館(こうしかん)

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「人気道場の中には全国から門弟を集め」というのも安易な記述である。北辰一刀流など幕末の一部の道場を除いて、江戸におけるほとんどの剣術道場は参勤交代の諸藩士を対象にしたのだから「集めた」わけではなかった。時代背景を踏まえて記述しないと、誤った武術史観を植え付けることになる。





(つづく)
by japanbujutsu | 2017-06-10 17:16 | 武術論考の部屋 Study
松代藩伝卜伝流師範 青山大学蟠竜軒成芳

長野市松代の本誓寺墓地を歩いていたら、偶然にも松代藩士で卜伝流師範であった青山大学蟠竜軒成芳の墓碑に出合った。
前回、この寺を見学したときには気付かなかったのだが、今回はなぜか真っ先に目に飛び込んできた。

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碑文は今なら明確に判読できるが、残念ながら活字化されたものを知らない。
風化が進まないうちに記録したいものだ。

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彼は当初、松本藩の水野氏に仕えていたが、享保十年に水野氏が移封となってから、松代に来て真田氏に仕えた。
幼少から武芸を好み、清水次郎右衛門に従って卜伝流剣術を学び、その他鎗、捕手、棒、鎖鎌の諸術に達した。

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柔術は松代藩に来てから学んだ関口流を卜伝流に採用して、卜伝流腰之廻として教えた。
内容は関口流そのままである。

流儀は明治維新後に途絶え、現存しない。
なお、この流儀には居合は含まれていない。





(完)
by japanbujutsu | 2017-06-08 17:53 | 武術論考の部屋 Study
袴帯の結び方

先日の居合道演武会で某師範が私の袴の結び (結びきり) を見て言った。
「そういう結び方をしていたら審査には絶対に受からない」 と。
それで言い返した。
「私はそんな団体に入るつもりは毛頭ないし、大体、審査なるものを受けない」 と。
下の画像が私がしている結びきり。

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聞くところによれば、その流儀では決まりで私が一番嫌う 「十文字」 に締めないとダメらしい。
その流儀はというと実は戦後創作されたものであることをご当人は何にも知らない。
そして、彼らがしている十文字結びなるものが、戦後になって一般化したことも彼はまったく知らない。
つまり、指導者が教えたことに対して何の疑問も持たず、何の勉強もせず、ただ盲目的に 「審査」
のためにやっているだけなのである。

さて、それでは袴帯の結び方について少し述べてみよう。
袴帯の結び方には十文字、一文字、重ね片結び、結びきり (武者結び) 、蝶結び (花結び) などがあり、またこれらの変化結びが多くある。
これらの中で袴帯の結び方は本来 「結びきり」 あるいは 「一文字」 が武家では普遍的であった。
一文字結び。

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袴帯は特殊な事情がない限り、解けないように結ぶのが当然である。
十文字はもっとも解けやすい結び方であり、まったく実用的ではない。

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上の古写真では右前で捻り結びにしている。
これで絶対に解けない。
すぐ解けるように結んだり、外出から帰ってきて結び方が違うと厳しく追及される。
徳川慶喜の写真を見ても一文字の団子結びで解けないようにしている。

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しかし常に結びきりで袴を着用すると、すぐに紐が傷んでしまうので、十文字結びなどが明治時代後期以降に考案された。
特に戦前までは、十文字結びはおめでたい席などでしか使わなかった。
江戸時代の武術伝書に見る袴帯はほとんどが一文字である。
十文字は一つもない。
要は、元来、袴帯の結び方には規則も強制もなく、個人の好みで自由に結んだということである。
下は影山流の大正期の写真。

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結びきりで一端を垂らしている。
一つの流儀の固定観念で他流を批判してはいけない。

なお、諸氏が十文字結びにしているのを非難するつもりはまったくない。
誤った指摘をされたから持論を述べたまでである。






(完)
by japanbujutsu | 2017-05-23 17:21 | 武術論考の部屋 Study
殿中武芸

殿中武芸などというものが江戸時代に存在した記録はない。
殿中で着用する長袴は、当時の武士の正装である。
殿中では走ってはならず、刀を抜くことは切腹にあたる重罪である。
謀反・刃傷沙汰を防ぐために、殿中差 (短刀) を差し、長袴をはいて歩きにくくしていた。
それと同時に長袴は戦意のないことを表すものだった。
この長袴のために殿中では自分の袴でつまづいたり、他人の袴を踏んでしまったりという失態が絶えなかった。
ちなみに忠臣蔵において浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたのは、殿中差しと長袴のためと考えられている。

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長袴の浅野に対して、吉良は狩衣という衣装で逃げやすかった。

俗に言う殿中居合に殿中柔術。
殿中において彼我が大刀を差して対座し、敵意を見せたら切り伏せる・・・
これでは殿中血だらけ。
長袴で座してどうして瞬時に片膝が立つのだろう。
「近う寄れ」 と言われても、実際には間を詰めることなど許されなかった時代に、互いに胸倉を掴める位置で対座することなど99%あり得ない。
ましてや三尺三寸に対して相手は九寸五分などという不自然極まりない想定が殿中に存在する余地はない。
武芸という、特殊な状況下を 「想定して」 、 「洗練された技を極める」 稽古を実生活における武家の行動に当てはめてはならない。

何度も繰り返し書いているとおり、武術における形の多くの想定は、芸を演じるための彼我の美的表現方法であって、それを以てストリートファイティングのようなルール無用の喧嘩と同一視してはならない。
武術形は実生活では存在しないような想定の下で、いかに困難な技を極めるか、それが主眼である。





(完)
by japanbujutsu | 2017-05-19 17:40 | 武術論考の部屋 Study

by japanbujutsu