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国際水月塾武術協会 International Suigetsujuku Bujutsu Association

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本会が伝承している武術流派と古武道全般の技法・歴史・文化などを解説します。文章・記事・写真の転載は固く禁止します。

カテゴリ:武術論考の部屋 Study( 240 )

流儀の規則のこと

古流の武術を学ぶにあたっては、弟子が師匠に差し出す神文書(誓詞) の他に、師匠が弟子に対して差し出す流儀の規則というのがある。

ここに二つの例を紹介しよう。

一つは柳剛流(柔術・六尺棒・縄手)の「教授規則」で、次のような規定がある。

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第一條  一、我カ手術授ケルハ親又ハ親戚為リト雖承諾有ニ非レハ必ス教ル事勿レ
第弐條  一、我ヨリ授ケル所ノ手術ハ千死一生際ニ非レハ必用ユル事勿レ
第三條  一、我カ門人ニシテ前ノ二條ノ規則ニ違背スル者直ニ放門申付ル事

とある。これなどはまだ、かなり束縛の少ない方であり、次の『関口流法令』になると、かなり厳格な規則となる。

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一 弟子取候事人柄見立不信不実之者ニハ教申間敷事
一 他流致稽古人ニ教申間敷事
一 柔居合剣術棒一ツ宛分ケ教申間敷事
(以下省略)  

こちらの法令は文化十年(1813)に阿波藩関口流師範の井上齋助成政が差し出したものである。他流を稽古する者には教えてはならない、というのは閉鎖主義の強い現れで、地方の流儀の特徴をよく表している。術の分割伝授も認められていないわけだから、それは厳しい流規である。
by japanbujutsu | 2013-03-19 13:34 | 武術論考の部屋 Study
古武道を学ぶ全世界の人たちへ

古武道を修行している外国人を見ると、現代武道との区別がほとんど付いていないまま、稽古をしていることが分かる。

それはほとんどの場合、技術だけを学び、そして稽古をしている姿である。古武道はスポーツではない。だから競技をしない。流祖が案出し、歴代師範が伝えてきた技(形)を繰り返し稽古をすることに意義を見出す日本が世界に誇る伝統的文化遺産である。伝統文化ゆえに、古武道には技以外に学ばなければならないことがたくさんある。

あなた方がご存じのように、この日本の大切な文化である古武道に対して、現代の日本人はまったく関心を示さない。もはや、今の日本には古武道を継承していく社会的環境が存在しない。

一方、あなたがたは、熱心に日本の古武道を修行している。その前向きな姿勢には敬意を表する。しかしながら、残念なことに、あなた方の多くは日本語が話せず、書けず、読めない。これは古武道のみならず、日本の伝統文化を学ぼうとするとき、かなり致命傷なのである。

伝書(巻物)をいただいても、そこに何が書いてあるかわからず、その巻物と一枚紙の証書との区別がつかない。第一、あなたがあなたの弟子に巻物を授けようとするとき、あなたは自分で文字を書くことができますか。
日本の武士名と花押を持っていますか。

あなたが師匠にしていただいたこととまったく同じことを、あなたの弟子にもしてあげることができますか。だから私たち日本人があなた方に古武道を教え、たとえ伝書を授けても、それはすべてを伝えたことにはならない。

もし、あなたにまだ時間的余裕があるとしたら、あなたは日本語を充分に学ぶ必要がある。日本語が話せて、書けて、読めて、初めてあなたは日本の文化を理解することができるだろう。
by japanbujutsu | 2013-03-14 20:22 | 武術論考の部屋 Study
稽古着のこと

近年、稽古着のことを「道着」と呼んでいるが、少なくとも古流を学ぶ者は稽古着と言わなければいけない。道着などという言葉は江戸時代には存在しないのだから。

さて講道館柔道の稽古着は、武士の正装から紋付き袴を取り除いたスタイル、つまり襦袢と股引で、これは日常服で言えば、下着姿であり、極めてはしたない姿である。沖縄から入ってきた空手までもがこのスタイルを採り入れているのは、まったく理解に苦しむ。

私が柳生心眼流や渋川一流に入門した頃は、師匠たちも皆、柔道と同じスタイルで、私がそれでは駄目だと説得して、改善してきた。一方、柴真揚流の町川師範はしっかりと最初から袴を着けており、古流としての伝統を墨守していた。

昨年、わが協会のドイツでの大会で、某古流の団体が、師範以外全員袴を着用しておらず、全く遺憾に思ったが、他流のことだから口出しはしなかった。日本の師範はもっとしっかりと指導して欲しい。初心者に袴を着けさせない、などという頓珍漢なことを始めたのは合気道であり、そんなことを古流は決して真似をしてはならないのである。

渋川一流でも明治期まではしっかりと袴を着用していたことが、伝書に表れている。

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by japanbujutsu | 2013-03-13 21:44 | 武術論考の部屋 Study
「稽古」とは?

武術を日常、修行することを「稽古」という。これは日本の伝統文化を学ぶときに用いる用語で、特別の意味・感覚を持っている。西洋から入ったものでも伝統のあるもの、たとえばバイオリンやピアノ、バレエなどのレッスンは稽古という場合もある。

稽古とは、優れた技術・才能を持った過去の達人・名人たちが創りだした技術や所作を伴う一定の教習課程を履修することである。

だから、練習、鍛錬、運動、勉強などのどれとも異なる意味を持つ。現在の競技武道は一定のルールに基づいて勝負を競うスポーツであるから、それは稽古ではなく、練習である。

稽古 lesson 伝統文化・芸術を模倣してその技術を習得すること。
練習 practice 一定のルールに基づいてゲームを行うための技術の向上を目指すこと。
運動 exercise 体を動かすこと。
鍛錬 training 筋骨を鍛えて強く、たくましくなること。

英語の場合、いろいろな和訳があり、厄介であるが、日本語本来の意味に合わせると以上のようになる。すなわち、武術の教習は「lesson」 が一番合っているのであるが、筆者は武術の稽古を「lesson」と言っている欧米人に出合ったことはない。

武術の稽古は決して練習ではなく、単なる運動でもない。いたずらに筋骨を鍛えるようなこともしない。武術とスポーツを混同しないことが大切である。
by japanbujutsu | 2013-03-03 17:00 | 武術論考の部屋 Study
道場名のこと

海外に見られる誤った日本文化(その多くは無知な日本人が教えたもの)を正していくのもわが協会の重要な使命である。今回は「道場名」ついて述べてみたい。わが協会の支部でも一部誤った使用例が見られるため、予めここに公表しておく。今後、彼らが正しい認識を持つことを願って止まない。

武術を稽古する建物のことを「道場」と呼ぶのが一般的になったのは、昭和の戦後のこと。それまでは「稽古場」といい、規模が大きくなると「演武場」と言った。

例えば、明治11年に建てられた札幌時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」という。当初、この建物は武術教練のために建設されたのである。

「道場」というのは元来、仏教の修行場をいうのであり、武術教練の建物を指す名称ではなかった。

それでは、海外における具体的な誤った用例について紹介していく。

近世以来、日本において武術の稽古場としてもっとも多用されているのは、◯◯館である。おそらく近世の武術稽古場の九割以上が使用しているだろう。これは現在でも同じ傾向にある。少数例としては我が協会のような◯◯塾、あるいは◯◯堂などがある。

アメリカ合衆国は我が協会の管轄エリアではないため、ここではヨーロッパの現状について述べる。今は除名したが、かつてわが協会のドイツ支部が「水月道場」という名称を付け、除名後の現在もこれを使用しているようである。これは道場の名称としては明らかに誤っている。

本来、◯◯道場という場合は、その道場が何を教える道場か、あるいはどこにある道場かを示すのである。例えばその道場が空手を教えていれば空手道場、剣道を教えていれば剣道場である。また古流の場合では新陰流を教えていれば新陰流道場となる。場所を示す場合には、大阪道場とか、名古屋支部道場などという。

そして、それぞれの道場名はそれとは別に存在する。正しく表現すると、「全日本剣道連盟◯◯県支部◯◯館」となり、道場の看板には「剣道場◯◯館」と書いてある。

「水月道場」では何を教える道場か分からず、またどこにあるのかも分からない。また、現在、我が協会のベルリン支部でも「天真直伝道場」を名乗っているが、これも同断であり、何の道場か分からない。「◯◯道場」と「◯◯館」の区別がついていないのである。「天真直伝流道場」とするか、あるいは改名するよう指示を出したが、応じなかった。

ヨーロッパには同じ事例がいくつもあり、正しい文化を伝えるためにあえてここで取りあげることにした。誤りに気付いてくれることを願う。
by japanbujutsu | 2013-03-03 12:56 | 武術論考の部屋 Study
センセイ??? 

日本の伝統を正しく外国に伝えることは容易なことではない。

武道、特に古武道(伝統武道、流儀武術)を完全な形で伝えるのは今の日本でも容易なことではなく、ましてや外国人には高度な事理を含む流儀内容すべての伝授は、残念ながら無理であると言わざるを得ない。しかし、武術を学ぶ日本人が激減している昨今、少なくとも武術の形・技法だけは言葉の壁を越えて海外に伝えておくのも大事なことである。武術も奇跡的に残ったクニマスと同じ状況である。

さて、海外で武術を指導していると、いろいろな間違いや問題点に遭遇する。先日も述べたが、今や取り返しのつかないほど誤まった解釈が蔓延しており、もはや是正は困難を極めるが、だからと言って野放しではいけない。それではいつになっても正しい文化を伝えることはできないからである。少しずつでも正しい日本文化を伝える手立てをほどこさなければならないのである。

今回は誤った言葉の使い方の一例について述べる。

「先生」。日本人と同じように、彼らの日本語も書物の影響が甚大である。「先生」は表記では「せんせい」となる。だから外国語では「Sensei」と表記される。しかし、日本語での発音は「せんせい」ではなく「せんせー」である。「い」を発音する日本人などどこにもいない。言文不一致の典型である。外国人は私を「せんせい」と呼ぶ。面倒だが、毎回訂正させている。

最近ではJRの駅名表記も発音どおりに書かれるようなり、良い傾向である。Tokyo(これではトキョ)ではなく、Tôkyô(トーキョー)。これが正しい。

だから「柔術」は「Jujutsu」「Jiujitsu」ではなく、「Jûjutsu」が正しい。Jujutsuでは「呪術」となり、Jiujitsuでは「充実」に近くなってしまう。

コミュニケーションは試験ではない。正しい発音で指導する必要がある。

これは発音ではないが、ついでに述べておく。
挨拶の「押忍(オッス)」。失礼極まりない。足を開いて両拳を握っている。こんな挨拶を武道(実態は武道ではない)の世界へ持ち込んだ者がいるために、不快な思いをしているのは筆者だけではないはず。筆者はこのような挨拶に対しては無視をする。そしてセミナーの参加者には、二度と筆者の前ではそのような礼儀外れの挨拶をしないよう説教をする。
by japanbujutsu | 2013-03-01 17:07 | 武術論考の部屋 Study
演武における捕と受

古流における演武では上級者は必ず受(攻撃・敗者)を行い、下級者は必ず捕(防御・勝者)を行う。

だから師範は必ず攻撃側となり、弟子は師範に勝つ防御側を演ずるのが鉄則である。

武術は弱者が強者を倒すのが大前提。

現代でも剣道では必ず師範は打太刀(攻撃)を行い、弟子や下級者が仕太刀(受けて勝つ側)を担当している。

ところが、徒手武道はどうだろう。

空手の師範が演武で弟子を蹴り倒したり、合気道で男性の師範が女性の弟子をバッタ、バッタと投げている。

強い者が弱い者に勝つのはいじめや暴力であり、武道ではない。師範は弟子を導くのが役目。だから演武では弟子に攻撃を仕掛けて、負ける側を演じなければならない。

筆者はヨーロッパの門人たちに厳しくこの教えを説いている。しかし、最初は理解しなかった。

彼ら曰く「弟子は師範に投げられることを誇りに思っている」。だれがこんなデタラメな思想を海外に広めたのだろうか。

稽古ではもちろん師範は弟子を投げて、その技術を正しく教えることが必要である。しかし、演武は完成した技を披露する場である。弱い者が強い者に負ける当たり前の出来事が武道の本質を表しているのだろうか。そんなことは絶対にありえない。

古流を、そして真の武士文化の教えを知らない現代の競技武道を指導する者が、誤った方法を検証もせずして盲目的に踏襲するから、世界にまで日本武道の誤った思想が流布してしまっている。

これを是正していくのは容易な作業ではないが、少なくとも我が協会だけは正しく古流の在り方を教え導き、徐々にでもその正しい方法論を認識させていくことを目指したい。

彼らも、最近になってようやくそのことに理解を示すようになってきた。

これからまだまだ正していかなければならないことがたくさんある。
by japanbujutsu | 2013-02-24 01:06 | 武術論考の部屋 Study
忍術は武術ではない!

ヨーロッパの都市に行くと、たいてい忍術の道場がある。

皆、黒い上下の空手着に黒い足袋(時には地下足袋を履いている輩も)を身に纏い、空手とも柔術とも区別のつかない、格闘技を練習している。それは何だと聞くと「ニンジュツ!」「ニンポー!」と返事をする。

そもそも、忍術道場の存在がおかしい。忍術とは諜報、すなわち人知れずに情報収集を行うこと・技術である。だから忍術道場へ通うなどということは「私は忍者です」、「私は忍術を練習しています」と公表していることであり、その時点でその者はすでに忍者ではあり得ない。

また、忍者という身分は存在しない。忍術集団はフリーメイソンと同じ、いわゆる秘密集団であり、自分が忍者であることを誰にも知られてはならないのである。武術を修行している武士が忍者になることも完全に不可能である。

忍者は特殊な場合を除いて、ごく普通に町中で生活をしている。だれもその人物を忍者だとは思わない。完全に身分を変えて、あるいは自分の生業を以て市中に入る。

忍びとして相手の土地に入った者が、他人と武術を以て戦うことなどありえない。

武術流派の内容に忍術が含まれている例がある、などと論じている人たちもいるようだが、筆者はそのような例を知らない。武術の小道具を忍びの武器と間違えているのだろうか。大体、本物の忍びは武器など携帯しない。

服部半蔵を忍者であるとするのは、今に始まったことではないが、半蔵が忍びであった記録など一つも残っていない。後世の創作である。半蔵は初代も二代目も武士である。伊賀者を統率しただけで、彼が武術を稽古した記録などどこにも残っていない。

筆者が住む町には戦国末期、忍者がいた。彼らの本業は富士浅間師職の神官であり、全国に信徒を擁していた。そして全国を旅しながら信徒に御札を売り歩いたから、各地の情報を入手することができた。甲州武田家では彼らを利用して、全国の情報を収集していたことが記録に見えている。彼らはスッパと呼ばれた。日常は神官の姿で、しかも札売りが仕事だから、だれも彼らを忍びだとは思わない。だから忍びになりうるのである。

したがって、○○流忍法など称して格闘技を練習する道場など、江戸時代に存在するはずもなく、入門に際して姓名を書いて血判を行う武術道場に「忍者」がいるわけがない。

もし、明らかに忍者だとわかる服装をして、それがだれかに見つかり、格闘をして負けたらどうなるのであろうか。その忍びを放った主は、取り返しのつかない事態に陥ること必定である。

ここに加賀無拍子流の伝書『水鏡』がある。ヨーロッパではこれが忍術の伝書であると思われているらしい。このブログに無拍子流の別の記事を載せたところ、早速ヨーロッパから『水鏡』に関する問い合わせがあった。
日本では何の反響もないが、遠いヨーロッパでその記事を翻訳して読んでくれている人がいる。何と熱心なことだろう。彼には丁寧に返事を認めてやると、この春、筆者を訪ねてくるという。ちなみに『水鏡』に記載されている事柄は武士の心得である。

日本の文化は全部、外国人に持って行かれるだろう。悲しいことだが現実である。

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                          無拍子流秘伝書『水鏡』
by japanbujutsu | 2013-02-23 17:58 | 武術論考の部屋 Study
偽流儀=捏造武術のこと

世に本物があれば、必ず偽物がある。これは世の常。しかし、それにまんまと騙されて、それが真実だと信じ切って、大切な人生を無駄にしている人たちも多い。

本日は、偽流儀、すなわち捏造(でっちあげ)武術の話をしよう。

現在、伝統の古流武術と見せかけて、実際は昭和の戦後になってから創作された武術がいくつもある。特に東京及びその周辺に多く、全国の捏造流儀の九割以上に及ぶ。歴史が明瞭な地方にはほとんど捏造武術なるものは存在しない。

中国武術では昔から「3年かかって良師を探せ」という言葉があるらしいが、現代の若者には良師も流儀も見極める能力がない。情報過多の時代にあってはなおさらのことである。

本当の伝統武術をやりたくて入門したのはよいが、それが昭和の捏造武術だと気が付くまでには、素人の場合、やはり「3年かかる」。

現代においてこれだけ豊富なメディアが存在していても、事実を隠し通す者はいくらでもいるし、その数だけまた犠牲者もいる。

それでは、正真正銘の古流武術と、捏造武術の見分け方について、いくつかの判断事項を挙げてみる。もちろん、真の伝統流儀であっても一つ位は該当事項があるかもしれないが、ここに掲げるすべての事項をクリアーしていれば、まずその流儀は捏造であると考えた方がよい。

一、先代師範、または現師範に相弟子(兄弟弟子)がいない。
二、明治・大正・昭和戦前の稽古・演武記録や写真がない。
三、今、伝えられている形の名目と同じ名目を記した江戸・明治期の伝書がない。
四、歴代の直筆伝書がどこにもない。
五、戦前までどこに伝承していた流儀か言及できない(系図がある場合、それは決まって武術の系図とは無関係)。


八光流柔術のように昭和になってから創られた流儀であっても、その成立過程を明白にし、開祖奉告祭を執行して新しい流儀であることを公表するのであれば全く問題はない。

しかし、多くの場合、武術の伝統とは全く関係のない家系図や講談本の系図を引用して、それがあたかも武術の相伝系譜のごとく見せかけている。

ここで流儀名を一々挙げるのは、よくないことなので、その判断は各自に任せたい。武術の本家日本に「嘘」があっていけない。今、ここで糺しておかなければ、今後、武術はますます誤った方向に流れてしまう。欧米では最早、その是正ができないほど偽流儀・捏造武術が蔓延っている。

わが協会の使命は、あくまでも真実を伝えることである。
by japanbujutsu | 2013-02-23 12:46 | 武術論考の部屋 Study
古武道に宗家なし

昭和の戦後、古武道の正しい相伝方式を知らぬ者たちが、免許皆伝を受けて次々と「宗家」を名乗りだした。
元々、古武道の世界には宗家というものは存在していない。

宗家は一つの流儀を学ぶ全国の門人を掌握する統括組織の元締め(家元)を意味している。だから華道や茶道には宗家がある。華道や茶道は師範になると弟子を取って指導をすることができるが、宗家から独立することは許されず、弟子の入門から階級伝授まですべて宗家に報告をして、金銭を上納するシステムである(不完全相伝)。だから当然のことながら宗家は一つしか存在しない。

ここまでは理解できたであろうか。

武道でも柔道は講道館(全日本柔道連盟)、剣道は全日本剣道連盟が段位の発行権を独占しており、正に宗家と同質の組織となっている。だから、現代武道を修行する者たちは一度も見たことのない先生の名前が入った段位証書をもらうことになる。自分が普段、通っている道場の先生は何もくれない。

ここまでは理解できたであろうか。

古武道は茶道や華道、あるいは現代武道とは全く違ったシステムを持っている。弟子は免許皆伝を受けるとその師範から独立して道場を構え、独立して弟子を取り、自分で弟子に資格を与えることができるようになる(完全相伝)。武士はある藩で、ある流儀の免許皆伝を受けると他藩に招かれたり、あるいは他藩の者を受け入れたりして武術を教授できるようになる。藩外不出などという流儀は江戸時代に存在した記録はない。一つの流儀がいろいろな藩で教授されていたことは周知の事実である。それらの流儀の師範は皆、それぞれ自分で弟子を育て、自分で弟子に免許皆伝を与えることができる。だから江戸時代の武術には「宗家」はあり得ない。

ここまでは理解できたであろうか。

現代の古武道界を見ると、ものすごい宗家の数である。一つの流儀で、二つも三つも宗家が存在している場合がある。それぞれが勝手に名乗っていることが明白である。免許皆伝=宗家だと思っていることがそもそもの間違いである。宗家を名乗っている者は自分の弟子の中からもたった一人の宗家しか出さないのであろうか。他の免許皆伝を持つ優れた弟子は、師匠が自分ではない誰かを宗家に指名することをどのように思うのだろうか。いくら免許皆伝になっても、宗家でない者は自分の弟子に免許を与えることができない。入門者がある度に宗家に報告をしなければならない。月謝の一部は宗家に上納しなければならない。現在、宗家を名乗っている道場で、もしこのことが正しく実行されていないとしたら、それは実質的に宗家ではなく、ただ宗家を名乗っているに過ぎないのである。宗家を名乗る自分の師匠は、同じ流儀の他の道場の免許を発行しているのだろうか。同じ流儀名の他の道場の師範は宗家の道場に定期的に研修や稽古に来ているだろうか。

ここまで理解できれば、古武道に宗家があることがいかに不自然で、あり得ないことかお分かりいただけたと思う。
正木流の故名和弓雄先生は、この意見に賛同されて、自ら名乗っていた正木流の宗家を平成10年に廃止している。

なお、例外的に江戸時代、江戸で宗家制度を敷いていた流儀が二つある。浅山一伝流と天神真楊流である。この二流は江戸に参勤交代でやって来る諸藩士に指導をしたため、流儀を全国的に組織することが可能であった。しかし、廃藩後、参勤交代も廃止され、江戸では武術も廃れていき、この二流儀の宗家制度は簡単に崩れ去った。

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                  江戸時代に浅山一伝流の家元をなした森戸家の系譜
by japanbujutsu | 2013-02-22 21:34 | 武術論考の部屋 Study

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