ブログトップ

国際水月塾武術協会 International Suigetsujuku Bujutsu Association

japanbujut.exblog.jp

本会が伝承している武術流派と古武道全般の技法・歴史・文化などを解説します。文章・記事・写真の転載は固く禁止します。

カテゴリ:神道無念流居合 Munen ryu( 15 )

平成7年 青森県居合道連盟櫛引八幡宮新春奉納演武

平成7年正月、青森県居合道連盟が毎年恒例の初抜会を櫛引八幡宮でやるから参加しないか、と師匠の小瀬川先生からお誘いを受けた。
是非、ということで勇んで出掛けた。
新幹線で行くので一度の訪八(2泊3日)で約8万円が飛ぶ。
それでも通い続けた。
すでにあれから22年も経った。
光陰矢のごとし。
翌年の十二月、筆者は免許皆伝をいただいた。

この奉納演武に参加した流派は無双直伝英信流と神道無念流。
英信流約20名に対して、神道無念流は数名。
しかも神道無念流の人たちは皆、剣道をやっているのか腰高でまったく精彩を欠いている。
しかし、掛け声を発するからまだいい。
英信流の無声の演武は3人も見ればもう結構。
我慢も修行かとつくづく思ったことを覚えている。

当日の記念撮影。

b0287744_1372870.jpg

正面から見て宮司の左が小瀬川先生、後列左から三人目が筆者。





(完)
by japanbujutsu | 2017-01-22 17:50 | 神道無念流居合 Munen ryu
古伝の一足立ち

八戸藩伝の神道無念流立居合には、他の同流には見られない独特な所作が多くある。
これは東北の外れに伝承したが故の古伝を保持した技法でもある。
そしてまた、こうした所作・動作は江戸時代に描かれた錦絵などにも散見されるものであり、その意味からは全国的にも普遍的なものであったと見ることもできる。

その一つに「一足立ち」(両足を付けて立つ)がある。

b0287744_21203152.jpg

両足の爪先をそれぞれ45度に開き(両足の角度が直角になる)、前足の踵を後足の中心に付ける。

一体、どれだけの流派がこの一足立ちを伝えているだろうか。
筆者の知る限り、八戸藩伝神道無念流以外に見たことがない。






(完)
by japanbujutsu | 2016-09-23 17:06 | 神道無念流居合 Munen ryu
堅固の備え

神道無念流の教えに次のようなことがある。

善剣刀者自身堅固而法他之虚随変打敵是聖之法也

剣刀の術をよくする者は、我身に不足なき堅固の備を構えて、敵の心のすき間の虚を見て取て、前後左右どのように動きかわるとも、其時の動きやう次第にて、敵を打留るなり、是即ち意と事とをくれ進のなき処にて申分なき手本也

これによると、構えというのは静止したものではなく、敵の動作に応じて如何様にも打ち留めることができるものである、またそうでなければならない、という。

b0287744_2025276.jpg

「敵の心の隙間の虚を見る」
武術においてはこれができるかどうかが生死の境目である。
これは試合をしなくとも形の稽古の中で十分に体得できる。
要は稽古の仕方であり、競技武道がいくら試合をするからといっても所詮防具に身を固めていては、心の見方、読み方も真剣勝負とは問題にならないほど甘い。
本当に一挙動に全神経を注いだら、双方が動けなくなるのが「命がけ」の試合である。
何度もボカボカ打ち合うのは武術ではない。

しかし、競技武道には競技武道としての良い点はあるのであり、それを否定するものではない。
念のため。
by japanbujutsu | 2015-07-01 20:00 | 神道無念流居合 Munen ryu
掛け声のこと

まず、世間の人たちの大きな誤解を指摘しておく。
武術・武道をする日本国内外の多くの者は掛け声と気合いの区別ができていない。
日本人の指導者が誤ったことを海外で教えるから、彼らはろくな知識を持っていない。
気合いは声を発しなくても掛けることができる。
掛け声は確かに気合いの一部ではあるが、そのすべてではない。
そのところの区別・研究を指導者はしっかりとしてほしい。

筆者はこれまで掛け声のない流派・武術を修行したことがない。
だから、個人的には掛け声のない武術は武術ではないと思っている。
その点、スポーツ競技の剣道などは掛け声を重視しているから、まだ武術の一面を少しは保持しているといえる。

さて、神道無念流では「懸声の事(利)」として次のように説いている。

勇気を増し、太刀の勢を加え敵を威嚇し、其挙動を制す。是によって精神を緊張せしめ、心身の勢力を集注し得るものなり。懸声も一種の武器なり、三つの声と称することあり。其の一は勝を知らす声と云。勝ちて後大きく声をかくれば、敵は其の声に驚き其のまま畏怖して、続いて打出し得ざるものなり。(以下略)

仙台藩伝浅山一伝流柔術・小山一刀流剣術の達人、相澤永長斎は、いかなる敵も掛け声一つで動けなくしてしまったという。その掛け声は稲妻よりも大きく、聞いた者は剣を交えることなくその場に卒倒したという。

b0287744_23324852.jpg

画像は甲高い掛け声を発して形を打つ力信流棒術。
岡山県畑鮎村の古の稽古では、山地一帯にその声が響き渡り、「また棒の稽古が始まった」と、それが村人たちの口癖だったという。
by japanbujutsu | 2015-06-22 17:02 | 神道無念流居合 Munen ryu
神道無念流立居合口伝

未だ門下にも示していない神道無念流立居合の口伝であるが、実技を伝承していない者には知識にはなっても実践することはできないから、ここに公開する。

そうはいうものの、実は他流の居合にも十分通用する口伝であり、その点は各流派で大いに研鑽してほしいと思う。

神道無念流立居合口伝
鞘離れ、体の締まり、手の内の冴えに心を用ゆべし。鞘離れは始はすらすらと抜き、鯉口に三寸にて鋭く抜き離す也。始より余り急に抜けば、鯉口へ切込むもの也。体の締まりは、打込みたるとき、下腹を張り、腰に力を入れる心持あり。手の内の冴えは打込む時、体につれて力を入れる心也。始終力一杯に握り詰めては、切れぬもの也。手の内を緩めるにはあらざれども、自然のやはらきある内より一段の締まりありて、切味宜しき也。修行して自得すべし。(以下略)

b0287744_2142111.jpg


何だ、大したことではないじゃないか、と言う諸君。
実はこんな基本的なことでさえ、多くの居合修行者はできていないのが現実である。
高段者の「枯れた技」こそ、本来の居合の技であると思う。
極意に達した人の居合は実に綺麗で、迫力もある。
by japanbujutsu | 2015-06-20 17:42 | 神道無念流居合 Munen ryu
伝書釈義 神道無念流目録 ⑤ 八幡尊霊

目録の最後は八幡尊霊の太刀太極図で締めくくっている。

b0287744_18285564.jpg

八幡尊霊
凡欲学兵道者必先
常可神念

太極
(太刀太極図)
陰陽

これについては『神道無念流剣術免許弁解』に次の一節がある。
神運万霊任心変化必然也。上に云、剣も手も心も法も相忘るとは、何事も我腹の内にとけ合て、只一円の太極になりたるなり。そこで精神の運動、玉をまろばす如くにして、万端を備へしたましい心に思ふままに千変万化すること必ず間違なきなり。

また、太極円の図については、
一円心より悠急に至るまでの条々、悉く心の中にとけ合て、其機に臨み其変に応して、変化自在を得へきこと、其理の深く其味の妙なること、筆にも詞にも尽されぬ故、下に神号と一円の図を出して悟らしむるものあるべし。


兵道(武術)を学ばんとする者は先ず神を念じなければならない。
by japanbujutsu | 2015-06-18 17:39 | 神道無念流居合 Munen ryu
伝書釈義 神道無念流目録 ④ 兵法の至極

目録の「人心」 の次は兵法の至極について書かれている。
それまでは楷書で書かれているが、この文だけは草書で書かれている。

b0287744_2134233.jpg

兵法の至極は唯こころひとつに工夫肝要なり。然は術の業は色々にあやありて、ととまる処の妙剣は中の一字にきわまりて、別の事さらになし。敵にむかへ勝負の妙道あり。一心常にこころを主人として、うちにあれは実に其屋不能入外容、一大事有之乎

文中にある「中の一字」について『神道無念流剣術免許弁解』では次のように述べている。

離於い強弱柔剛而以中一字体配之也
それ故強き弱き柔か剛きなど云ものには、とんとはなれて論することなし。ただかたよらず、まがらぬ処の中の一字を我身にひたと引受あはせるなり。中の字は一尺の物五寸を中とする意にてはなし。天地の備はりたる処を中と云也。一尺のものにて二寸の処に中の有ることもあるべし。又五寸七寸の処にあることも有べし。物をはかりに掛て、ふんどの留る処先つ中の意なり。それをいつも五寸の処を中と思へば、大なるあやまりなり。体は中庸の体群臣とある処の注に猶接納とあり。まじはるの意なり。又礼記文王世子の篇に体異性と云処の注に猶連結とあり。つらなりむすぶの意なり。配は配偶配合などの熟字ありてならぶとよみ、又あはすの意なり。さすればこの体配は中の一字を我身へまじわりつらねて一つに合すると云ふこと也。

つまり、この「中」を自分の心と一つにすれば歪みもなく、偏りもなく、天理は心にある故に真に「一円」になると説く。自分から切ったり、打ったり、捕らえたりせず、何もすることはない。それは明月が澄み渡り、万物を照らしても別にすることはないのと同じであり、これを「未発」と言って、これが剣術の至極の妙要だと説いている。

よくよく吟味すべし。
by japanbujutsu | 2015-06-12 17:50 | 神道無念流居合 Munen ryu
伝書釈義 神道無念流目録 ③ 人心

目録で形数を示した後に「人心」の教義が書かれている。

b0287744_21364788.jpg


  人 心
人心者如鏡物来則応
物去依旧自在不曽迎
物之来亦不曽送物之
去只是定而応応而定

読み下し文
人心は鏡の如く 物来れば則応ず 物は去旧に依 自在曽て物之来る迎へず
亦曽て物之去るを送らず 只是定て応ず 応じて定る。

『神道無念流剣術免許弁解』の中にその解釈が出ている。
「(前略)剛とか柔とか一偏に執着すれば臨機応変のわざ出ず。一円の明鏡の体あればこそ、敵の曲直邪正を照し、千変万化のわざあればこそ、一円明鏡の用を見はすなり。事理の離るべきからざる誠に如此。(中略)水晶の玉の如く、始もなく終りもなく、まんまるに曇なきものにて、人来るとて別に光をますにもなく、物去るとて、光りを減ずることもなし。夫物来れば大小精粗不求して、照さざることなし。(以下略)

よく吟味されたい。
by japanbujutsu | 2015-06-08 17:27 | 神道無念流居合 Munen ryu
伝書釈義 神道無念流目録 ②

次には流儀で伝える形の目録が記載されている。

b0287744_21173168.jpg

一円中太刀大旨   口伝
常一知神        口伝
五加五行        口伝
非打十本        口伝
立居合十二剣     口伝
統合二剣        口伝

しかし、この目録は流祖福井が戸賀崎熊太郎に授けた目録に比べると、多くの形が欠落していることがわかる。
すなわち、流祖の時代には、五加五行の次に、「九加九字十字」があり、立居合十二剣の次に「居合五剣」がある。さらその後、三学陽剣が九箇条、電光が八箇条、位太刀巻石火が七ヶ条あり、最後に「惣合 二剣」がある。

ここでは非打十二剣の意義付けを書いておく。
非打とて、主太刀より生ずるの名なり、打方は邪、主太刀は正なり、正を以て推し、十分の気の先をかける故、邪迫て打出すなり、依て主太刀は求めて打に非す、敵に応し後先のわざを以て自ら勝を取るなり、只七本一剣のみ、後先のわざにあらず、敵を動して、先を打也、是試合口にて事を論するもの也、いかにもするどくつかうべきなり

居合の口伝釈義もあるが、これは実技を継承している関係で、ここでは述べないことにする。
by japanbujutsu | 2015-05-31 17:51 | 神道無念流居合 Munen ryu
伝書釈義 神道無念流目録 ①

今回から少しずつ、神道無念流の伝書を読み解いていく。
まずは『神道無念流目録』から。
伝書の相伝順序からすると『神道無念流初巻』、『神道無念流演武場壁書』の次に授けられる三巻目の伝授巻である。

この伝書の詳細(口伝)は、現在どこの神道無念流にも伝えられていないものと思われる。
伝書の冒頭には次のような記述がある。

b0287744_19232268.jpg

 神道無念流
   五加
                                          親拝
 摩利支天 未発象   (打仕二本の刀を物打ちで合わせた図)  神拝
                                          師拝

ここで重要なのは「未発象」という言葉の意味であろう。
戸賀崎家に残る『神道無念流剣術免許弁解』によって、その概要を知ることができる。

それによれば、「初本」の解説に、
「初に打合す処、未発の象なり、始は是のみにて、外にわざなかりしを」とある。
また、「二本」の解説に、
「依て受方、其未発を打故、かすんで切返すなり」とある。
さらに「四本」には、
「・・・横に受るにあらず、只かすんで合ずるなり、然るときは皆未発の象に結ぶなり」とある。
そして、その総括として、
「故に五加惣て勝負なし、未発の象に起て、未発の象にとどまる、是全一円の理なり」と結んでいる。

つまり、未発象とは打仕双方が中段に構え、物打で交わる形(象)を表しており、正に描かれた図のとおりなのである。
勝負を決めない武術形はいろいろあり、筆者が相伝している流儀でも浅山流の棒術や天道流の剣術では未発のまま形が終わる。
by japanbujutsu | 2015-05-29 17:11 | 神道無念流居合 Munen ryu

by japanbujutsu