九鬼神流と高木流棒術 Kukishin ryu & Takagi ryu Bôjutsu
この二つの流派は関西と東京・千葉あたりに伝承されているが、その歴史には疑問点が多い。
まず、九鬼神流の祖は澄水流元祖の名和基長から二十九代目の大国鬼平重信と『武芸流派大事典』に載せているが、武術の伝統から言えば、あり得ない代数なので、これは考証に値しない。
要は大国鬼平からの考証となる。そして、その大国鬼平について同書には次のような記述がある。
「鬼平は紀州熊野の修験者になっていたが、高木馬之輔の子源之進と技を競った時、柔は高木がすぐれ、棒は鬼平がすぐれていた故、以後、柔は本体高木揚心流が継承し、棒・槍・薙刀は九鬼神流が継承することになった」
さて、ここに一巻の伝書がある。題は『高木流捕棒』、江戸期文化十三年の発行である。巻末に記された相伝者の系譜は、
大国八九郎 大国太郎太夫 大国武右衛門 (以下省略)
と続いている。最初の大国八九郎は鬼平の子である。九鬼神流という流儀が近世の記録に見えず、また江戸期の伝書も発表されていないのはどういうことだろうか。要するに実態がないのである。
肝心の九鬼家の武術流儀は起倒流であって、九鬼神流ではない。偽書『九鬼文書』の中にもっともらしく記述されているのが初見ではなかろうか。
そして、なぜ大国一族は九鬼神流を名乗らず高木流を名乗ったのか。しかも、そこには棒術が含まれているから、大国と高木の間には大事典に書かれているようなことはなかったと判断できる。
その高木流の棒はというと、実に奇妙な形態をしている。
長さは四尺三寸であるから、いわゆる「杖」である。一つは普通の杖であるが、もう一つは振り杖(乳切木)である。
その何が奇妙かというと、棒の両端に目の形に刳り抜いた孔が明けてあり、その片方に短刀が刺さっている。何と気味の悪い武具だろうか。
これにより、大国家に伝えられた棒術が現在の九鬼神流のそれとはまったくの別物であることがわかる。