楊心流と揚心古流 Yôshin ryû and Yôshinko ryû
楊心流の二大系統に、従来、秋山系楊心流柔術と別系に扱われていた「揚心古流柔術」がある。
この両流派の関係について全く新たな見解を発表する。
楊心流柔術の事実上の元祖とされているのは大江専兵衛義時である。
大江の門人として傑出した三浦貞右衛門は、肥後藩楊心流薙刀で大江の次代に名のある三浦定右衛門のことである。
秋山系楊心流とは別系とされている揚心古流の流祖「三浦揚心」は、この三浦定右衛門と同一人物である可能性が濃厚である。
「貞」と「定」はともに「てい」あるいは「じょう」と読む。
揚心古流の二代目阿部観柳は、三浦定右衛門に師事した豊後杵築の手嶋観柳と同一人物であろう。
揚心古流の三代目、江上観柳司馬之助部経は豊後の人で、阿部観柳はその叔父に当たる。
手嶋観柳の門人である阿部貞右衛門も阿部姓である。
揚心古流は幕末には戸塚派揚心流と称し、明治初年には柔術界の雄として講道館と双璧であった。
もちろん戸塚派揚心流の形は、秋山系楊心流と名称も内容も大同小異である。
以上を系譜で示してみると次のようになる。
秋山四郎兵衛義直
大江専兵衛義時(楊心流)
三浦貞(定)右衛門衛門(揚心古流)
阿部(手嶋)観柳
江上観柳司馬之助武経
と極めて簡潔な系譜になる。
近世武家社会は個人の変姓変名が頻繁に見られるため、近世から楊心流の系譜は真実が見えなくなってしまっており、昭和になって武術史研究が盛んに行われても、この謎を解明できた研究家は一人もおらず、かの綿谷雪氏も両者を全く別の流系として扱っていた。
楊心流は「楊」の文字、揚心古流は「揚」の文字を用いることはすでにいろいろな機会に述べてきたことである。
かつて日本武道学会で論文を発表した際、筆者(会長)の論文に書かれていた「揚心古流」の文字を編集人が勝手に「楊心古流」と筆者に無断で改竄した。「大きなお世話」とはこのことであり、筆者は発表会場でこの杜撰な編集態勢に苦言を呈した。
そのレベルにしかない学会に籍を置くべきではないと考え、早々に退会届を提出した。