居合術の想定
居合術を実戦に照らし合わせていろいろ説く向きがあるが、武術の稽古は武士の教育・心得としての存在であり、形=実戦とは成り得ないことは周知のことと思う。
しかしながら武術の形は予め想定される敵の攻撃に対して、我が身体を自由に駆使して、これに対応できるよう流祖や代々の相伝者が考えてきたものである。
だから武術を稽古することが、護身のための技術力を高め、筋骨を鍛え、精神を錬磨することに直結していることもまた事実である。
しかし、武術の形の多くは自分が不利な状態か、動作が困難な状況下におかれている場合の対処法を教えている。
そのために武術形の中には実戦ではありえない想定がいくつもある。
その代表格が居合である。
まず、座敷の上で双方が帯刀して相対し、刀を抜けば前の相手に届くような接近した位置で話しをすることなどあり得ない。
ましてや殿中で帯刀するなど言語同断である。
殿中居合というのは、あくまでも武術を稽古するための想定上に作られた状況設定である。
六尺棒の形でも正坐して棒を脇に置く形があるが、捕方が座敷に棒を持ち込んで、座り込み、相手と相対して話しをすることもあり得ないことである。
また、居合で稽古に用いる刀は、武士が外出するときに帯刀する大小とは違う刀を使う。
だから居合の稽古では、日常御法度物となるような長寸の刀を使うこともあるのである。
そして、刀を左手に持ったり、座したときに左側に置くのは、相手に敵意を表すことだからしてはならない、ということもよく耳にする。
これも間違いで、刀を持つのは左右どちらの手でも良いし、座したときに置くのも左右どちらでもかまわない。
組形の相礼は、稽古を行うためのものであり、刀を置く位置は流儀によってさまざまである。
居合の形は基本的に一人形である。
刀を左側に置くから敵意を表すなどということはない。
武術の形をどのように解釈するかは、各人の自由であるが、本来は師範から伝えられるべきことである。
こうした口伝がどんどん失われてしまった結果、現代人によって勝手な解釈がなされ、歪んだ武術観が形成されていく。