新陰流伝書を読む 1
現代の世にも多くの武術が伝えられている。
しかし、事理のすべてに渡って完全に相伝している流儀など一つもない。
流儀に膨大な伝書が伝えられているにもかかわらず、技ばかりを稽古して、伝書の修学をおろそかにしているのではなかろうか。
日常の稽古で伝書の講義をしている道場がどれほどあるだろうか。
二時間稽古をしたら、一時間は伝書の講義をすべきではないだろうか。
流儀の内容を半解もせずしてよく免許皆伝を公称できるものだと思う。
自分が学ぶ流儀の伝書が販売されていても、購入する意思のないような者は、武術を学ぶ素養がないものと知るべきである。
先人、先哲の知恵の結晶を蔑ろにして武術を学ぶなど言語道断である。
武術は技ばかりでは何の役にも糧にもならない。
今回から3回にわたって剣術の有名流儀、新陰流の伝書を釈義してみたい。
私にとって新陰流は門外であり、興味も関心もないが、古い流儀だけに普遍的な剣術の理合いを考察するには好史料が多く、参考になる。
まずは『新陰之流位詰之目録』を翻刻。
新陰之流位詰之目録
此一巻奥意者雖以能構截懸乗行以其上位
得勝 口伝
高浪 心強身和キ持合也
逆風 心軽身ト持合事第一トス
岩砕 心強身軽持合
残心 残ル内ニ行心専ニ持合也
清月 持合ニ心軽ハスミ身軽可勝
眼勝 心専ニハスミ身ヲ惜ミ持合也
右位詰終
前文にある「構截懸乗行」については、同流伝書『月の抄』に、
敵の太刀さき我方へ向はば、付て打べき事敵の構太刀、はたらきあらば、拍子に乗て、打べき事、敵の構、身をはなれて太刀さき後へならば、一拍子に勝つ可き也とも書す
とある。また、目録のうち「残心」については、同伝書の「残心の事」に、
三重も五重も心を遺すべし。勝たりとも、打はづしたりとも、とりたりとも、ひくにも、掛るにも、身にても少も目付に油断なく、心を残し置事第一也
とある。さらに、各形に付く心と身の理合について、同流伝書『飛衛』には、
躰と心とは一つなり。躰にある心なり。心によってはたらく躰なり。(中略)躰ありても死人はわざをなさず、心のなすわざ也。
とある。
形の真意を知らず、その形骸だけを繰り返しても、その形を理解することはできない。
その肉ばかりを付けても、心がなければ死体となる。
心がない形は死形であり、生きた形には到底及ぶことはない。
理と心をよく知り、よく考え、よく学び、形を実行するべきである。
形には妙味がなければいけない。
(つづく)