北辰一刀流真実史
北辰一刀流は幕末期に全国に流伝したが、その正統が昭和の御代まで残り、平成の現在にまで伝承されているのは水戸藩伝ただ一つである。
わが甲斐国は天領であり、幕末の剣術は北辰一刀流一色になったが、最後の伝承者は皆、昭和初期に黄泉の客となり、流儀は悉く絶した。
水戸藩以外の他藩もほとんど同じ状況である。
北辰一刀流では刀身二尺三寸、柄八分の木刀を用い、鍔や反りに至るまで詳細に伝えられた。
水戸藩伝では「一つ勝」 から始まる表組の形を古伝の通りに稽古している。
北辰一刀流では剣術の他に居合や薙刀を併伝したが、総元締めの玄武館ではこれらの武術を教授した形跡はない。
居合は北辰流居合と称し、坐四本、立四本、抜構三本で、これがすべてである。
薙刀は長刀兵法と称し、桶町千葉道場で指南された。
これも甲斐国に伝承されたが、維新後に絶え、千葉佐那の死を以て桶町千葉道場の名跡も消えた。
坂本龍馬の有名な長刀兵法の伝書は、義理伝授であろう。
龍馬は千葉重太郎から学んではいるが、稽古はもっぱら玄武館でしていたと思われる。
これらの居合と薙刀が維新後に相伝された形跡はない。
また、玄武館の名跡は、無刀流千葉長作(千葉周作の息子、東一よりその武門を継承)が継いだが、彼を以て玄武館の正統は世から消えた。