新陰流の無刀取りについて
新陰流の無刀取りについて巷の記述を見てみると、次のようなことが書かれている。
①■新陰流は柔術の体さばきなどをその術理に取り入れており、素手で相手の刀を取る「無刀取り」は柔術の技とも言える。そのため宗厳や宗矩の門下から起倒流、柳生心眼流、小栗流などの柔術諸流派を生んでいる。
②■子供を人質にした強盗(狂人であったという説もあり)に僧侶に変装して丸腰で対峙し、握り飯を差し出し相手が油断した隙に刀を抑え取り押さえた、という出来事から生まれたと言われています。
一般的な『真剣白刃取り』とは違い、刀の根元の部分を拳で挟み込み動きを封じるという形で、合気より柔術の要素が強い技です。
③■無刀取りに関しては、柳生家に伝わる伝書に「無刀とは刀に執着せず武器を選ばぬことであって、たとえ武器がなくても慌てず騒がぬ境地に至ること」と記されており、まったくの素手で立ち向かうということだけを言っているわけではないようだ。
①について
結論から言うと、起倒流、柳生心眼流、小栗流は、系脉的には新陰流の線上に連なってはいるが、技法においてその影響下にあるとは到底思えない。
それは、この三流派に共通点がまったくないことからも明らかである。
しかも、徒手対徒手のいわゆる柔術の体系が存在しない新陰流における、たった一つの技が柔術を主体とする流儀の母体になる要素は一つもない。
②について
滅茶苦茶な説明である。
僧侶の話は問題外であり、さらに拳で挟むとは奇妙この上ない技である。
③について
一番まともな意見。
要は柔術の技ではないということ。
その伝書の原典を見たいものである。
想像から生まれた非現実な技をもっともらしく書いたり、言ったりするのは、現代人の得意とするところであるが、それらに共通する大きな欠点は、原典を確認していないことである。
下の画像は仙台藩領の登米郷に伝承され、筆者が継承している西法院武安流武者捕の極意「一心」の形。
(完)