誠衛館跡を訪ねる
先日、市ヶ谷柳町にかつて存在した天然(てんぜん)理心流近藤勇の稽古場「誠衛館(せいえいかん)」跡地を訪ねた。
そこにはただ一つの角柱(案内表示)が立っているだけで、通りからは草陰に隠れてまったく見ることができない。
これでは何のための案内表示なのかまったく意義がない。
お役所仕事はだからいけない。
通りの入口に表示板を建てなければ、まったくの無駄である。
さて、江戸時代に江戸に存在した武術の稽古場の多くは、切絵図を見ても町人町には人名表記がないためその位置が不明なものが多い。
千葉周作や磯又右衛門は士分格なので、辛うじてその姓名を地図中に留めている程度である。
しかし、さらに厳密に見て行くと、それらは屋敷(住居)の可能性が濃厚であり、本当にその場所に稽古場が存在していたのかという疑問が湧く。
今回訪ねた誠衛館も、その場所にあったという証左はない。
切絵図には「近トウ」としか書かれていない。
そこに近藤の屋敷があったことは確かだろう。
しかし、あのような家屋が並列・密集している場所で果たして本当に竹刀を激しく打ち合う音を発することが許されるのかという疑問もある。
歴史というのは、安易に結論を出すべきではなく、もっといろいろな角度から、いろいろな史料を付き合わせて確証を得るべきだろう。
※ここでは天然理心流を「てんぜんりしんりゅう」とし、一般に言われている試衛館を「誠衛館」、すなわち「せいえいかん」とする。
試衛館では国語的に意味が通らない。
(完)