護身流柔術
〝護身〟という言葉は江戸時代の武術ではあまり使用例がない。
当時、護身というのは専ら真言秘密の教義に含まれる九字護身法、十字護身秘法が主であった。
武術として護身(護身術)を大々的に使ったのは、明治末期に現れた「中澤流護身術」であり、ここにおいて初めて「護身術」が柔術の代名詞として使われたのである。
今回、紹介する伝書は、『武芸流派大事典』にも未掲載の流儀で、肥前国対馬藩に伝承された「護身流柔術」という流派の目録。
天保五年(1834)に小茂田匡定静が国分弥左衛門に差し出したもの。
流祖は不明であるが、系図の筆頭には尾上定之進光明という人物が記されている。
伝系四代目の吉副橘右衛門清直についても不明であるが、対馬藩士で楊心軟殺流柔術を極めた人物に吉副橘左衛門清廉があり、吉副橘右衛門清直は明らかにその血縁者であると推察される。
残念ではあるが、さすがに対馬には行くことができない。
(完)