昨日は関口流抜刀術駿河館での稽古であった。
近頃、東京から新入門者が来ているが、昨日は休まれたので、久しぶりに師匠とマンツーマンだった。
逆袈裟切りを一時間ほど試技・錬成し、それまでなかなかうまく刃筋を通すことができなかった形において、かなり正確に切り上げる方法を体得できた。
一時間、切り続けたので腕は棒のようになったが、その甲斐あってよい成果を得た。
これは駿河館の 「口伝」 として後進に伝えていく。
下の写真は、関口流初本の 「抜打先之先」 における、柄上げ。
複数の口伝が凝縮されている。

(完)
四月になってから仕事が終わった後、毎日、手内剣を打っている。
もっとも重点的に打つのは七寸の水月針剣=天剣(七寸)、間合いは三間。

五寸の人剣は命中率も高いから、仕上げに打つだけ。間合いは一間半。

天剣だけは打法が異なるため、常に同一の投げ方が求められる。
地剣(六寸)と人剣(五寸)は滑走打法であるのに対し、天剣だけは一点推打法なのである。
根岸流も滑走打法である。

(完)
雄鶏道場
蜂鳥道場
山武士道場
葉隠道場
コブラ道場
これ全部、武道の道場名。
この種の誤った命名はヨーロッパの大陸に多く、アメリカやイギリスは比較的少ない。
筆者が思うに、恐らくこれらの道場の内容は・・・
雄鶏道場・・・雌雄別々に飼育する養鶏場
蜂鳥道場・・・ハチドリを飼育する花鳥園
山武士道場・・・山賊に成り下がった武士の小屋
葉隠道場・・・切腹を指南する刑場
コブラ道場・・・コブラを飼育するインド系ペットショップ
あまりにもひどすぎると思いませんか。
こんな道場名を日本の指導者はどうして看過するのだろうか。
技だけではあり得ない文化としての日本の武道を教えることが、指導者としての役割である。

すごい、ビールの道場である。
第一、富士山から朝日は出ませんよ。
(完)
先日、 「なんでも鑑定団」 で古文書が鑑定されており、そのときに鑑定士が、
「花押と印判はどちらか一つあればいい」
と断定し、依頼人の花押と印判のある古文書は 「ニセモノ」 と鑑定された。
この鑑定に、武術の伝書を毎日眺めている筆者は非常に違和感を感じた。
武術の伝書では、むしろ両方がなければ 「ニセモノ」 とされることが多いからである。
そう言われて改めて通常の文書を見てみると、確かにどちらか一つしか見られない。
しかし、だからと言って、両方あるものを即座に 「ニセモノ」 と断定するのは早計ではないか。
どうも腑に落ちないので、もう少し研究してみたいと思う。
こちらは俗に 「三行半」 と呼ばれている離縁状である。

確かに印判は押されていない。
(完)
武芸の形を演じるとき、もっとも注意しなければならないのは、言うまでもなく姿勢である。
正中線を立て、体が傾かず、両眼は平視して、体を揺らさず、機敏に動く。
形の上手下手は歩く姿勢からもわかる。
姿勢の悪い人、とくに猫背(かつては「せむし」と呼ばれた)の人は、まず、日常胸を張ることを意識して身体を矯正しないといけない。
最近は感動するような演武をほとんど見ることができなくなってしまったが、筆者が素晴らしい演武だと思うのはかつて鳥飼よし女史が演じた香取神道流の薙刀である。
上記の条件を見事に体現している。
理想の形を演じ切っている。
これこそが古流の妙技と言えるのではなかろうか。
よくよく吟味あるべし。
(完)
鎌倉時代後期ごろから、起請文は各地の社寺で頒布される牛王宝印 (ごおうほういん) という護符の裏に書くのが通例となった。
ここから、起請文を書くことを 「宝印を翻す」 ともいう。
特に熊野三山の牛王宝印 (熊野牛王符) がよく用いられ、熊野の牛王宝印に書いた起請文の約束を破ると熊野の神使であるカラスが三羽死に地獄に堕ちると信じられ熊野誓紙と言われた。
落語の『三枚起請』でもこのことは説明されている。
しかし、江戸時代の武術の起請文にはあまりこの熊野護符は用いられなかった。
簡略する場合には、巻物の最初に神文と罰文を書いておき、入門者は年月日と氏名を書いて血判するという風邪が一般的となった。
このような風潮の中で、松代藩の神道流剣術師範落合瀬左衛門は、入門者からはめいめい起請文を出させた。

用紙も古来の熊野護符を用いている。
(完)
先日、九鬼神流棒術免許巻がオークションに出品されていた。

「忍者たち」 にも人気の流派なので破格の高値で落札されたようだ。
よほどのことがないかぎり、この伝書は二度と日の目を見ないだろうから、ここで少し述べてみたいと思う。
発行者は石谷竹松正次で、被授者は松原庄太郎、明治32年の差し出しである。

過去に同じ石谷の明治期の伝書はいくつか見ており、これが初めてではない。
しかし、石谷以前の伝書については未見であり、当然、九鬼神流の江戸時代の伝書は見たことがない。
筆者は九鬼神流棒術を高松系と木葉系の両系で学んでおり、棒・半棒ともに形はすべて打つことができる。
しかし、この流儀に名を連ねることをよしとしない。
その理由はだれにでもわかるだろう。
『武芸流派大事典』 では、石谷松太郎の諱は 「隆景」 としており、その先代である石谷武甥の諱を 「正次」 としている。
いずれにしても石谷松太郎は高松の師であり、松太郎は大国繁治英政および石谷武甥の弟子である。
流儀の江戸期の歴史が創作されたものであることは、『武芸流派大事典』 の記述から明らかである。
創作した人物も知っている。
(完)
そこには幕末戊辰戦において朝廷方について働きをなした報国蒼龍隊士、小沢彦遅の墓がある。

蒼龍隊は富士浅間師職の御師が結成した勤皇隊である。
小沢家は代々御師職にあり、幕末の彦遅は志摩守の国名を持つ神官であり、苗字帯刀が許されていた。
この彦遅、小野派一刀流剣術と宝蔵院流鎗術を極め、小沢家には巻物や木刀、稽古道具などが残る。
(詳細は拙著『富士北麓幕末偉人伝』を参照ください)
彦遅の墓参りをしていると、どこからともなく一匹の猫が現れ、挨拶をして帰って行った。

彦遅が挨拶にきてくれたのだと思った。
(完)
武人の嗜みの一つに骨董収集がある。
書画であれ、陶磁器であれ、絵画であれ、なんでも結構であるが、武芸を嗜む者としてはやはり武具、特に稽古道具のコレクションをしたいものだ。
骨董武具を手にすると、これはどういう流派がどのような使い方をしたのだろうかと、いろいろと考えてみたりする。
それもまた楽しみの一つ。

その際、武具は骨董でなければ意味はない。
海外の物好きのように今モノをいろいろ買い込み、陳列して喜んでいる輩がいるが、それらは苦労もせず、ネット通販でいくらでも手に入るオモチャでしかない。
現在、水月塾でも門下生を見ると、多くの人が技(形)を修行するだけで、その周辺にある万のことに興味を示す人がほとんどいないのは残念である。
勉強、稽古することは無限である。
(完)
左手に種類の異なる手内剣を持ち、ランダムに右手で取り上げて打つ。
これを甲陽水月流では 「混ぜ打ち」 という。
今回は、道場稽古では絶対にしない他流の混ぜ打ちをやってみた。

甲陽水月流と根岸流の混ぜ打ちである。
各5本ずつ、計10本を左手に持って三間強の位置に立つ。
甲陽水月流を取ったら右、左、右足と踏み込み二間で、根岸流を取ったら右足を進めて三間で打つ。
右手の内でどちらの手内剣か瞬時に判断する。
この両流派の投擲法は、順体逆体の違いを除けば、手離れの操作は同じなので、容易に刺中することができる。
(完)